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2008年12月15日

赤穂浪士の忠義

赤穂浪士の忠義
元禄14年2月4日江戸城の松の廊下にて

赤穂藩藩主浅野内匠頭が「この間の遺恨おぼえたるか」と

指南役であった吉良上野介に脇差できりかかり

忠臣蔵でも有名なセリフ「殿中でござる」と取り押さえられた

その事件は江戸幕府が毎年正月に天皇家へ年賀を奏上し、その答礼として

天皇の勅使が派遣され、それを幕府をあげて接待する祭事

とても大切な祭事を台無しにされたと激怒した

将軍家徳川綱吉は浅野内匠頭に即刻切腹を命じ赤穂浅野家は断絶とされた

仇討を果たせぬ浅野家藩士たちは町民からも見下されるが

実は1年あまりの期間を呈し準備を整えて事にあたる

元禄15年12月14日

筆頭家老大石内蔵助を先頭に46人の赤穂浪士は

吉良邸に討ち入り仇討を果たす。

その46人の義士たちは全員切腹となるのですが

そもそもの発端は浅野匠頭と吉良上野介との喧嘩が原因だ

であるなら吉良は傷を負っただけだった

当時特に喧嘩両成敗が通念の認識であったのであるなら

浅野の命まで落とすような罰を与えなければ良かった話だ

この仇討を果たした46人の責任追及の裏には

こんな話がある

忠義を果たす事は武士であるなら当然のことで温情があつまり

江戸の武士たちから熱烈に称賛された

逆に吉良家に対する批判が起こるほどだったらしい

忠義について推奨していた将軍綱吉は公弁法親王に相談した際

「今死を与えれば後世に語り継がれるであろう、時には死を与えるのも

情けとなる」との助言を受け切腹を命じたとされている。

武士の一分をもって事を収めたという結末に心を打たれた。

昨夜も忠臣蔵音無しの剣が放映されていた

田村正和が演じる逃がしの御前こと結城慶之助

心道無念流の達人で松平家の婚外子という設定

忠臣蔵にしてはラブストーリーになっていて少し物足りなさを感じたが

忠義や武士の魂などを表しているところは心を揺らしてくれた

戦後間もなく連合国軍による占領期の厳しい言論・思想統制の中

この忠臣蔵、日本の三大仇討の一つに数えられる話であるため

日本人による報復運動の高まりにつながるとして作品の公演や出版が

禁止された程の日本人の魂を代表する作品だ

機会があったら昔の忠臣蔵を見てみたいと思った。



Posted by うるま侍 at 14:08│Comments(0)
 
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